読者賞だより48通目――今月の「読み逃してませんか~??」/『パッセンジャー』(執筆者・大木雄一郎)

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 夫が階段の下で倒れていた。

 人工呼吸をやってみた。死体を始末することを考えたのはその後だ。(5ページ)

 リサ・ラッツ『パッセンジャー』(杉山直子訳 小鳥遊書房)はこんな文章から始まる。妻である「わたし」が倒れている夫を発見し、人工呼吸してみたものの間に合わなかった、というのは一読してわかる。人工呼吸を試みたのだから、「わたし」が夫を殺したというわけでもなさそうだ。にもかかわらず、《死体を始末することを考えた》とはどういうことか。殺したのでなければ救急車でも警察でもなんでもすぐに呼べばいいではないか、と大抵の読者は思うはずである。

 しかし「わたし」は真逆の行動を取るのである。夫の死を隠蔽するために死体を引きずってみるも、あまりの重さに隠すことは早々に断念。通報もせず、隠蔽も諦めた「わたし」は、スーツケースに荷物を詰め、集められるだけの現金を集めて、夫のシボレーに乗り込むのだった。死体を放置したまま逃げ出したのである。

 逃げ出したはいいが、そのままでは金も尽きるしいずれ見つかってしまう。「わたし」はある人物を頼って偽のパスポートを用意させるが、その人物は彼女に協力する一方で、彼女を殺すために刺客を送り込んでくる。夫を殺したのは自分ではないと、冒頭で読者に告げておきながら、なぜ彼女は新しい身分を手に入れてまで逃げようとするのか。なぜ命を狙われているのか。彼女はいったい誰で、何を隠しているのか。これが本作の中心に置かれる謎である。

「わたし」は名前や外見を変えながら居場所を次々と変えていく。名前を変え、車を乗り換え、携帯電話を使い捨てながらただひたすら逃げ続けるということがいかに困難か。たとえば車を買うには自らを証明するものが必要だし、ホテルに宿泊するにも仕事を探すにも、必ず身分証明を求められる。一度はパスポートを用意することができた「わたし」だが、逃亡を続けるうちに何度も新しい身分が必要となり、自分と姿形が似ている女性を見つけては、そのバッグから免許証をスリ取ったりする。その繰り返しが、やがて逃亡そのものを難しくし、じわじわと彼女を追い詰めていく。読者は、目指す当てのない逃亡劇がどこに行き着くのかもわからないまま、彼女が何度も窮地を切り抜けていく、その姿に引き込まれていくのである。

 隠された謎を解く鍵は、文中に時折挟まれるメールにある。ライアンとジョーという二人の男女が交わすメールによって、「わたし」の過去が少しずつ明らかにされていくのと並行するように、彼女の逃避行も終わりに近づいていくという構造になっているのだ。

 そして本作には、重要な役割を果たす女性がもうひとりいる。「わたし」が夫を置いて逃げ出し、新しい身分を手に入れたあと初めて訪れた店のバーテン、ブルーである。「わたし」のパスポートが偽造であることをひと目で見抜いたブルーはその後、彼女の逃避行に大きく関わることになる。

 近年、女性同士の連帯や絆を物語の中心にすえた、シスターフッド・ミステリとでもいうべき作品が数多く刊行されている。CIA黎明期を支えた女性タイピストたちが一冊の小説を武器に大国ソ連に立ち向かう『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳 東京創元社)や、二人の女性私立探偵が少女の失踪事件を追う探偵小説風の出だしから最後はとんでもないところに読者を連れて行く『アポカリプス・ベイビー』(ヴィルジニー・デパント/齋藤可津子訳 早川書房)、60歳の女性とその孫、そして隣に住むタフなおばさん(!)の三人が、マチズモの権化とも言うべきクソ野郎どもから命がけの逃走劇を繰り広げる『わたしたちに手を出すな』(ウィリアム・ボイル/鈴木美朋訳 文春文庫)など、この1~2年を振り返っても多くの作品が思い浮かぶのだが、本作における「わたし」とブルーの関係性にも、同じような連帯感を読み取ることができる。これらの作品を楽しんだ読者であれば、きっと本作も堪能できるはずだ。

 破綻寸前、ギリギリのところで逃避行を続けるさまを見届けるというスリル、どんな窮地においても生き延びようとする意志を決して捨てない女性に対する共感、そしてもちろん彼女の正体と過去についての謎と、読者を捉える要素がいくつも詰め込まれた本作。これはちょっと読み逃す手はないと思うのである。

 ところで本作は「第八回日本翻訳大賞」の最終選考対象作品のひとつとして挙げられている。受賞作の発表は5月中旬とのこと。結果が出るまえに読んでおくというのもアリですよ。



 去る4月16日に、第10回翻訳ミステリー読者賞の発表イベントを開催いたしました。184もの投票(過去最高です!)によって70作品のタイトルが挙がったなかから、ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(服部京子訳 創元推理文庫)が第一位に選出されました。

 投票していただいたみなさまはもちろん、読者賞を気にかけてくださったすべてのみなさまに、心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。投票の全結果と、作品宛にいただいたすべてのコメントは、読書会のサイトからPDFの形でダウンロードができるようになっています。今後の読書計画の参考にしていただけると幸いです。

 また、発表イベントの模様は、現在YouTubeで絶賛配信中です。翻訳ミステリー読書会世話人の面々が70作品のなかからオススメの作品をご紹介しております。こちらもぜひごらんください。今回ご紹介した『パッセンジャー』も投票いただいた70作品のなかのひとつです。

 2022年も4ヶ月が経過しようとしています。すでにたくさんの注目すべき作品が出ていますね。今年も一読者として、しっかり楽しんでいきたいと思います。みなさまにもすばらしい作品との出会いがありますように。引き続き、翻訳ミステリー読者賞をよろしくお願い申し上げます。










大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。


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