翻訳ミステリー大賞を予想する その1

もうご存知のことと思いますが、読者賞の発表と同じ日に、第七回翻訳ミステリー大賞も発表となります。というか読者賞のほうが大賞の授賞式に間借りさせていただいているのですが……。翻訳ミステリー大賞は、授賞式当日のリアルタイム開票まで、受賞作品が何なのか誰もわからないというのが大きな特色となっています。以前の授賞式に出席された方ならお分かりかと思いますが、票をひとつひとつ読み上げるごとに会場がどよめくあの感じは、他のミステリー小説の賞と比較しても、なかなか独特の雰囲気を持っているという気がします。この賞は、翻訳者が投票するものですので、翻訳者のみなさんは投票するという楽しみがあります。しかし読者としても、開票までただぼーっと待つというのも芸がないので、どの作品が受賞するのか、ちょっと予想してみよう、というのがこの記事の主旨であります。ま、素人予想ゆえ、当たるかどうかなどは気にせず、あと1週間足らずと迫った授賞式に向けて気分を盛り上げていただければ、という気持ちです。まず「その1」として、各候補作を簡単に、私の感想なども少しだけ交えながらご紹介します(私が読み終えた順です)。『ゲルマニア』ハラルト・ギルバース/酒寄進一(訳) 集英社文庫
本作は前回(第六回の授賞式)おこなわれたビブリオバトルで第1位になった作品です。そんな理由から、私も刊行からそう時間を置かずに読みました。海外小説を読んでると必ずといっていいほどナチスがテーマになっている作品に当たるわけですが、本作は1944年のベルリンで起こった猟奇殺人の捜査を、ユダヤ人の元刑事がおこなうという、ちょっとあり得ないような設定の物語です。この設定を聞いて感じたのは、そもそも戦争状態にあるベルリンで、殺人事件の捜査がそれほど重要視されるものなのか、ナチがユダヤ人に捜査を依頼するというようなことが現実としてあり得るのか、あり得るとして、どれほど作品のリアリティが保てるのだろうか、ということでした。それがどう描かれているかは、実際にお読みになっていただければと思います。長めの作品ではありますが、一気に読めます。あと、バディものとして読むと、より楽しめるのではないでしょうか。『悲しみのイレーヌ』ピエール・ルメートル/橘明美(訳) 文春文庫
2014年の『その女アレックス』旋風はまだ記憶に新しいと思いますが、同じくカミーユ・ヴェルーヴェンを主人公とするシリーズの新刊が候補に挙がりました。とはいえ、本作は『アレックス』で描かれた時期よりも前の出来事を描いた作品で、本国での刊行順も実はこちらが先。日本での刊行順もちょっとした話題となった作品ですが、なんといっても本作の読みどころはその構造でしょう。おそらく読んだ人は誰も、あるポイントに到達したとき愕然とするはずです。「オレハイママデイッタイナニヲヨマサレテイタンダ」言葉にするとこんな感じでしょうか。また、日本で、刊行順に読んだ人であれば、本作がどういう結末を辿るのかはだいたいわかっているわけですから、そのことをどのように受け止めるかによっても評価は別れるのではないでしょうか。ちなみに私は、アレックス→イレーヌという刊行順を是とする立場です。本作を読んでいる間の、私の感情を一言でいうなら、まさしく「悲しみ」そのものであり、その邦題とも呼応するものです。原題は「Travail Soigne」であり、これは「入念な仕事」というほどの意味なので、邦題をあえてこのようにしたというのは、読者に「悲しみ」という感情を強く味わわせるという意味が込められていると考えたのですがいかがでしょうか。『声』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由実子(訳) 東京創元社
作者も登場人物も、その名前が長くて読みにくい、そして覚えにくいことに定評のある、アイスランド発ミステリーのシリーズ邦訳第3作です。20年来、職場であるホテルに住み着いていた孤独な男の死。捜査を進めるに従って明らかになる男の過去と、脇で語られるDVが疑われる子どもと父親の挿話、そして主人公エーレンデュル自身の家族関係、またその少年時代の描写が複雑に折り重なり、読む者に家族というものの意味を改めて問うてくるという、とても重厚な作品です。そしてその問いは、読者のみならず、もちろんエーレンデュル自身にも突き付けられており、次作以降も同様のテーマが描かれ続けるのだろうと思います。本シリーズ、邦訳は3作目ですが、本国ではすでに十数作刊行されており、個人的には、一刻も早く続きが読みたいシリーズのひとつです。『もう過去はいらない』ダニエル・フリードマン/野口百合子(訳) 創元推理文庫
2014年、翻訳ミステリーファンは、「アレックス」という名前とともに「バック・シャッツ」というアンチ・ヒーローの名前をその胸に刻んだことでしょう。『もう年はとれない』で鮮烈なデビューを飾った著者の2作目は、軽妙な会話と常軌を逸したバック・シャッツの行動で読者の度肝を抜いた1作目をやすやすと超越する傑作でした。過去の事件と現在とが交錯する物語の作りは前作と共通する部分がありますが、今作はそこに物語としての深みが加わったと思います。バック自身のユダヤ人としての出自とそれに絡んで描かれる本作の結末は、日本に生まれ育った私たちには容易に理解しがたいものなのかもしれませんが、前作から引き継がれるユーモアと、物語の深部に横たわる重厚なテーマとのバランスがうまく取れていて、とても読み応えのある作品となっています。読者としては、メンフィス市警の元刑事で、今は歩行器なしでは移動すらできない老いぼれが、自分の生きざまにどうケリをつけるのか、じっくりと見せてもらおうじゃないの、という気分です。『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス/田口俊樹(訳) 新潮文庫
主人公ダニエルのもとに、母親は精神を患っていて病院に入っていたが脱走した、とスウェーデンに住む父親からの電話が来たそのすぐ後に、父親が悪事に手を染めていることを訴える母親からの電話が入る。どちらの話を信じればよいのか、自分の元に逃げてきた母親が次々と示す証拠を目にしながらも、疑いを拭い切れないダニエルは真相を明らかにするべくスウェーデンへと向かう。というサスペンスなのですが、母親の告白と、ダニエル視点の現在が交互に繰り返される構造は、人によっては冗長だとか退屈だとかいう印象を持つかもしれません。しかし、冗長だと感じられる母親の告白が、ダニエルがスウェーデンに飛んでから、どのように収束していくのか、その展開の巧みさには目をみはるものがあります。そして、苦々しい真相が明らかになった後の、本当に最後の台詞に、読者はあたたかな希望を見出すのです。候補作中唯一の上下巻ですが、リーダビリティのよさも手伝って長さをまったく感じません。読みながら冗長さや退屈さを感じた人も、最後までぜひ読むことをお勧めします。ということで、5作品を私なりに振り返ってみました。次回「その2」で、どの作品が大賞に選ばれるのか、ずばり予想してみます。

全国翻訳ミステリー読書会

海外のミステリー小説専門の読書会です。 開催地は北海道から九州まで全国に広がっていて、多くの参加者にお楽しみいただいています。 参加資格は課題書を読み終えていることだけ。ぜひお近くの読書会にご参加ください。 また、読者が選ぶ翻訳ミステリー大賞、略して『どくミス!』を年に一回(4~5月)開催しています。 こちらも併せてお楽しみください。

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