読者賞だより58通目――今月の「読み逃してませんか~??」/『純粋な人間たち』『頬に哀しみを刻め』(執筆者・大木雄一郎)
今回は「普通とはなにか」について考えさせられた二作品を紹介したいと思います。[amazonjs asin="486276312X" locale="JP" tmpl="Small" title="純粋な人間たち"]
フランスで学び、いまは故郷セネガルの大学で文学を教えているンデネは、ガールフレンドから、寝物語にある動画を見せられます。それは、墓に埋葬されている遺体を掘り起こす人々の様子を録画したものでした。生前、同性愛者ではないかという疑いをかけられていたその遺体は、他の人々と同じ墓地に埋葬されるべきではないとばかりに掘り起こされ、多くの人の目に晒されてしまいました。そしてその一部始終を収めた動画がネットに拡散してしまったのです。動画を見せられた当初は、さして興味も湧かなかったンデネでしたが、墓暴きに対する周囲のさまざまな反応に触れるにつれ、彼は墓から掘り出されてしまった人物に興味を抱き始めます。
「この国で、生きていても死んでいても居場所がないのは、同性愛者だけ」
こんな帯文が目を引く、モハメド・ムブガル=サール『純粋な人間たち』(平野暁人訳 英治出版)は、上に挙げたような衝撃的な出だしで始まる、セネガル社会のタブーに正面から切り込んだ作品です。
セネガルという国は、人口の九割以上がイスラームというアフリカでも有数のイスラム教国家です。国民の生活規範は当然ながらイスラム教にあり、その教義に抵触する思想は容易に受け入れられることはありません。その最たるものとして挙げられるのが同性愛です。同性愛は西洋から持ち込まれた悪しき思想であり、同性愛者はそういった思想に心を汚染された者と見做され、いま現在も強い弾圧の対象となっているのだそうです。
世界的にLGBTQの人権が叫ばれる昨今、信仰に基づく社会規範に反するというだけで差別と暴力が黙認されるという、まるで時代に逆行するかのようなセネガルの現状を赤裸々に描いた本作ですが、では私たちはこの作品を、遙か遠いアフリカの、宗教観も異なるとある一国の、日本にいる私たちとは無縁の出来事を描いたものだと言い切ることができるのでしょうか。
ンデネはこの墓暴きについて、模範的なイスラム教徒である父親と意見を交わすのですが、そのなかで父親はこのように言います。
少し長いですが引用します。
少し長いですが引用します。
「《前略》私は同性愛嫌悪主義者なんかじゃない。いや、そうとも言いきれないか。おまえがどういうつもりでその言葉を使っているかによるからな。私は別にその手の連中を憎んでなんかいないし、死んでしまえとも思っていない。ただこの国でああいう行為や、ああいう存在が普通だとみなされるのが嫌なだけだ。それが同性愛嫌悪というんなら、それでいい。どこの国にだって依って立つ価値観というものがある。この国に生きる我々の価値観とは相容れない。ただそれだけのことだ。《後略》」(六一ページより引用)
この台詞が、私たちの身近にいる人たちの口から発せられたとしたらどうでしょう。「そんなことを言う人なんていないよ」と思うでしょうか。それとも「いや、ひょっとしたらいるかも」と思うでしょうか。最近取り沙汰されている「(同性婚を認めたら)社会が変わってしまう」という言葉と比べてみたらどうでしょうか。引用した父親の言葉との違いはなんだと思いますか。
上の台詞には「普通」という言葉が使われています。普通とはなんなのでしょうか。普通であれば正しく、普通じゃないのは罪なのでしょうか。そして普通であるということは、未来永劫変わらないものなのでしょうか。そんなことを考えながら本作を読んでいくと、これは遠い国で起こっている話ではなく、私たち自身の物語だということに気づくはずです。
ではここでもうひとつ、「普通とはなにか」を考させられる、そして同性愛というテーマも共通している作品をご紹介します。[amazonjs asin="459676655X" locale="JP" tmpl="Small" title="頬に哀しみを刻め (ハーパーBOOKS)"]
先週発売されたばかりのS・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』(加賀山卓朗訳 ハーパーBOOKS)は、昨年『黒き荒野の果て』(同)が大変話題となった著者の邦訳二作目です。
前作は、卓越した運転テクニックで強盗の片棒を担いできた男が、その稼業から足を洗って自動車修理工として身を立てていたものの、金銭的に立ち行かなくなってしまい、ある誘いに乗りふたたび強盗に手を染めるという、こう書くとなんとも手垢のつきまくったというか、どこにでもありそうなプロットだったのですが、これがもうびっくりするほどおもしろかったわけです。で、二作目はというと、かんたんに言えば「息子を殺された父親たちが自ら犯人を探し出す」話で、これまたありがちというか、どこかで聞いたことのあるようなプロットなのです。もっと言えば、二作ともに主人公は黒人であり、また裏社会で生きてきた過去を捨て、いまはまっとうな職業についているという設定も同じ。そしてあることをきっかけに過去に引き戻されていくという流れもまったく同じです。今作においては「殺された息子同士が同性婚カップルである」というところがひとつのポイントとなるわけですが、プロットだけを取ってみれば前作も今作も実にシンプル。どちらかというと新味のないありきたりな話のように感じてしまうところです。ところが読み出すとこれがもう一気に引き込まれてしまうおもしろさ。そこがS・A・コスビーという作家の強み、そして魅力なのかもしれません。
……と、本作のおもしろさについてまだまだ詳しく語ってもいいんですが、ここでは先に述べた「普通とは何か」を考えるうえで大切な部分についてのみお伝えするにとどめたいと思います。以下に引用するのは、二人の父親、アイクとバディ・リーが、それぞれの息子たちについて語り合っている場面、息子がゲイであることをどうしても認められなかった父親たちの、これまでの葛藤を吐露するところです(アイザイアとデレクは、アイクとバディ・リーそれぞれの息子です)。
「愛するのをやめようとした。しばらくアイザイアを見もしなかった。頭に浮かぶのは、彼がどこかの男といろいろやってるところだけだった。すまん、デレクはどこかの男じゃなかったな」
「いや、いいさ。言いたいことはわかるが、おれはデレクを愛するのをやめたいとは一度も思わなかった。ふつうになってもらいたかっただけだ。理解するのには長い時間がかかった」
「理解するとは?」
「何がふつうか、おれには決められないってことだ。あいつが誰の横で目覚めようが、目覚めてくれさえすりゃいいってことだ」(三〇九~三一〇ページより引用)
先に挙げた「普通とはなんなのか」という問いに対する、ひとつの答えがここにあるのではないかと私は考えています。すなわち、普通とはなにかを自分では決められないということです。
同性愛者は自分たちと違うから普通じゃない。宗教的規範からずれているのだから普通じゃない。普通じゃないのだから罰してもいい。彼らは罪人なのだ。アイクにいたっては、息子が普通じゃないから愛せない、だから愛することをやめようとしたというのです。そんなことがあるでしょうか。同性愛者だからといって、実の息子を愛せないなどということが。バディ・リーの言葉は、そんな凝り固まった考えから抜け出すきっかけを私たちに与えてくれます。そもそも普通とはなにかを自分が決めてしまうことそれ自体がおかしいことなのだと気づかせてくれるのです。物語の途中にさらっと出てくるやりとりですが、この会話は、今回紹介した二作品に共通するテーマを理解するうえで重要なポイントになっていると思います。そしてこのやりとりからは、国も文化も宗教も違うはずのアイクとンデネの父親に、同性愛忌避という点で驚くほどの共通点があることも伝わってきます。そしてこのことは、ンデネの父親が言う「国ごとに依って立つ価値観」が如何に脆いものかということを私たちに教えているのです。
同性愛やLGBTQといった事柄は、小説のテーマとして扱うにあまりにも重い事柄です。たとえエンターテインメントとして消費される作品であっても、こういった事柄を扱うのであれば、作者としての見解が示されなければならないと私は思いますし、紹介した二作品にはそれがあると思っています。読者の側が、必ずしもその見解をしっかり受け止めなければならないというわけではありませんが、ちょっと目線を変えてみるだけで、ジャンル小説といわゆる「文学」が極めて接近している様を見て取ることができるわけですし、その機会を逃すのは私たちにとって、やはり大きな損失ではないかと思うのです。そんなわけで、『純粋な人間たち』と『頬に哀しみを刻め』、毛色があまりにも違いすぎる二作品ですが、できれば両方とも堪能していただければと思う次第です。
付け加えておくと、前者はラストが大変衝撃的ですし(出だしも衝撃的ですが)、後者は実にエモーショナルな傑作です。どちらもオススメ。ぜひ手にとっていただきたいと思います。
さて、先週末に配信された「全国翻訳ミステリー読書会Youtubeライブ第12弾 ミステリー翻訳家が語る~この一冊、翻訳術~ Vol.1」はごらんいただきましたでしょうか。六名もの翻訳家が一同に会して自訳書について語るという機会自体、大変貴重だったと思います。私は田口俊樹さんから『郵便配達は二度ベルを鳴らす』について話を伺うという大役をなんとか果たすことができました(と思うのですがいかがだったでしょうか)。この作品については、過去に八度も訳された作品であるため、そういった部分のお話もさることながら、聞き手としての興味は、田口さんがフランクについてどうお考えかというところにありました。配信を通して本作の魅力がみなさんにお伝えできたのなら大成功。できなかったとしたらそれは作品のせいではなく、聞き手たる私がうまく引き出せなかったということだと思います。ともあれ、ごらんいただいたみなさま、チャットで盛り上げてくださったみなさまに心から感謝を申し上げます。まだ見てないという方も、アーカイブでぜひごらんください! などと言いつつ、この原稿は本番の二日前に書いているのですが(笑)
そしてもうひとつ、来月は翻訳ミステリー読者賞の投票月です。読者賞も回を重ねること十一回となりました。毎回みなさまに支えられながら続けております。今回もまた、ぜひみなさまの熱い投票を心からお待ちしています。投票は三月二一日から三一日まで。二〇二二年に刊行された翻訳ミステリー小説が対象です。詳しいことは、全国翻訳ミステリー読書会のサイトでご確認ください。Twitterでも情報発信しておりますので、そちらもぜひチェックをお願いいたします!
大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡読書会世話人です。3月に対面式読書会を開催します。現在参加者募集中。詳細は読者賞Twitterアカウント(@hmreadersaward)でおしらせしております!。
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